失声症になった話
ただの雑記録です。少し前の話です。
そもそも失声症とは以下のようなものです。ウィキより引用。
ー失声症(しっせいしょう、Aphonia)とは、主としてストレスや心的外傷などによる心因性の原因から、声を発することができなくなった状態ー
ストレス、心的外傷というか、ただ普通に自分が無理すぎて自己嫌悪のループに陥っていただけなんですけど。盛大な自慰行為ですね。
ぼくの場合、ああ無理だなあ無理だなあとガブガブ酒を飲む毎日を続けていたら、ある日突然「あれ?なんか喋れないな」、みたいな感じで始まりました。
喉がつっかえている訳でもなく、痛い訳でもなく、ただ純粋に言葉が話せない、そんな感じが2ヶ月くらい続きました。
はじめは「声でないのウケるな」くらいに思っていましたが、2週間を超えた辺りからかなり焦りました。
人と会話ができないだけで、こうも上手に生活できないのかと強く思った記憶があります。
その当時、毎日のようにぼくの家に泊まりに来ていた友人がいましたが、「話せない」ということの心理的負担が大きく、来るのを断るようになりました。
また、大学では授業前後や暇な時、事あるごとに喫煙所で煙草を吸っていました。けれど、喫煙所に行くという事はほぼ確実に知り合いに会う、という事になるので、めっきり行かなくなりました。スマホのメモに「なんか声出ないんだよね」、みたいな事を書いて見せるのがどこか恥ずかしくてキツかったのです。
そのおかげで紙巻煙草をほとんど吸わなくなったのはいい事なのかもしれません。当時、1週間でワンカートン消えていたので、中々の成長っぷり。
その結果、約2ヶ月間誰にも自分から連絡を取らず、ただ家に引きこもるようになりました。
発言する必要のない授業を多く取っていたので、大学には通えていましたが、朝起きて寝るまで、一切の会話のない毎日でした。
元々口数はそこまで多い方でないので然程の変化はなかったかもしれませんが、「当たり前が当たり前じゃなくなった」事がメンタル的にかなりきつかったです。
「人と会話する」ことが普通じゃなくなるだけで、こうも生きづらいんだなとその現実を突きつけられた、そんな感じです。
そして、「話せない」事で、言語という伝達手段がいかに容易かつ便利なものだったのか実感しました。言葉って偉大だ。
ただ、人と話す時間が全く無くなった分、かなりたくさんの本を読みました。今となって、これに関しては良かったなと思います。
太宰や漱石を一通り読み直したり、今まで手を出していなかったSFを読んでみたり、いろいろな発見がありました。
クラークの『幼年期の終わり』という本に出会えた事で、SFに対する抵抗がなくなったのもそれの一例です。そもそも傑作とされている本なので、やはり食わず嫌いだっただけなのかもしれませんが。
それが高じて、宇宙に関する本もたくさん読みました。自分が知らない分野の知識の新鮮さを久しぶりに味わうことができたので、これも良かったかなと思います。
結局、2ヶ月くらいだらだらと過ごしていたら、声が出るようになりました。元どうりの毎日の始まりです。
思い返せば相席食堂といろはに千鳥にはかなりお世話になりました。とにかく自分を甘やかそう、と、楽しいものをたくさん享受するようにしていたのです。
何回も繰り返し見たので、久しぶりに喋るのに、ノブみたいなクセの強いキャッチーな語彙が新しく自分の語彙に加わっていて、些か不思議な気持ちになりました。ちょっと気持ち悪いなとも思いましたが。
総括。「ひとりでいることがすきだ」と思っていたけれど、やっぱり限度はあった。孤独に幾度も潰されそうになった。ぼくの悪癖、自己過大評価の典型だと思った。
そして、普段実感していなくても、なんだかんだ周りに生かされている面はあるんだな、と思った。
話せるようになってから、人と会話するのがすごく楽しくなった。友達と話したり、初めて会う人と話したり、よく行くラーメン屋の店主と話したり。全部楽しい。
以上!