2024帰省
久しぶりに実家に帰省している。
柳川の鰻を食べに行ったり、蕎麦を食べに行ったり。
元旦は家族で西鉄グランドホテルで食事をした、2日には塾の同期と街に出て、高校の同期と博多駅の俺のフレンチに行くなどした。
年末年始は、一年の中で最も食に集中する時節だな、としみじみ思う。
私は元来食事に頓着がない方だと思う。
もちろん、上等な食事は美味しいと思うし、特別な体験をしているなと思う。
けれども、何を食べてもほぼ一様に美味しいと思えるし、そうでなくともイマジナリー生産者の顔が浮かび、「まあ各々頑張ってこの食事ににつながったのだろう・・」と思い、なんだかんだ手を合わせ、幸せに食事を終えている。
大抵のものは等しく美味しい。下限が「おいしい」なので、おいしい→すごくおいしい→めちゃめちゃおいしい、という感じ。
上に書いた以外にも牧のうどんや元旦のおせちも食べた。やはりおいしかった。
こんなに食べたのだからきっと体重が増えただろうと思い、久方ぶりに体重計に乗ってみた。見事に平常通りだった。なんなら少し減っていた。
はて、いつになったら私の存在量は増えるのだろう。
流石にアラサーと呼ばれる年齢になってからは、多少なりには気を使うようになった。
幼少期はいわゆる「おデブ」とされていたし、ある程度痩せた大学時代も、今ほどは痩せていはなかった。ちなみに、小学生の頃は、身長が160cm弱で70kg弱だった。
それが、新卒の時に心身を崩して以来、なかなか健康的な重さにならずに少し悩んでいる。
食べては戻し、イマジナリー生産者の皆さんに「本当にごめんなさい」と思い、また戻していた。
あれからずっと、おそらく不健康であろう体重である。大学時代は多少なりとも体積は確保できていたが、最近はひょろひょろである。このままだと消えて無くなってしまうのではなかろうか。
ありもしないのだが、事実そう思っている。
180越えの男なのに、常に60kgを切っている。時によっては、50代を切るのではなかろうか、ということもある。
小学生の頃は太っている自分がコンプレックスでたまらなかったけれど、今は逆なのがなんとも不思議な心持ちである。
そのせいで、痩せれば痩せるほどなんとなく”いいこと”として捉えてしまっていた自分はいる。小さい頃憧れたような、シュッとした体型。
多分今はシュッとしすぎていて、骨張つつある。きっと良くはない。
ーーーよった勢いではてなブログを開いた結果、ゴールの見えない箱根駅伝みたいな状況になってしまった。結論、特に言いたいこともないし、普通に生きているのだから困っていることもない。
飲酒時特有の「あ〜〜〜〜なんか文章書くか〜〜〜〜」というあれでしかない。
ここで一句
新春の チカラアバレし ”祭り”かな
明けましておめでとうございます、今年もどうぞよろしくお願いいたします
かぬ
バシャウマです。酒、かなり美味いです。
そういえば、最近酒屋で酒を買うようになった。
文字に起こすと些か当たり前で「それはそうだろ」と思うが、とにかく酒屋で酒を買うようになったのである。
今までどうだったか、というところでは、amazonで買っていた。
とにかく安い。とにかく酔う。そして、とにかく安い。
大学生の頃からか、この酒をずっと買い続けていた。極めて破壊的な一本である。
定期試験で一夜漬けしていたあの頃も、卒論が終わらず半ば諦めかけていたあの夜も、社会人一年目にして休職が半年以上続き、一旦死んでみるか!ともはやポジティブになっていたあの時も、常に冷凍庫には4リットルの彼がいた。
家賃はおろか食費も危うく、1食20円の焼きそばで1日1食生活、みたいな時期が本当に長かったので、4リットル3000円で酩酊できることに価格の数倍以上の価値を見出していた。今振り返るとパしかない。
当時の自分にとって、現実逃避する手段はいくらでも金を払っていいと思えるものだったのだ。(なおそんな金はなかったので甲州を買っていた。えも言えぬシニカルさがそこには存在する。)
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紆余曲折を経て、そういえば社会人3年目になった。
4年目だっけ?
特に気にしてないので、取り急ぎ3年目ということにしておく。
えてして、やっと家賃くらいは気を使わずにやりくりできるようになった。
それと同時に、酒屋で酒を買うようになった。(さっき気づいた。さっきとは5分くらい前のことである。)
振り返ってみると、現実逃避するために酒を飲むのではなくて、「酒うめ〜〜〜」と思うために酒を買うようになったな、と思った。
なんというか、余裕が出てきたのかもしれない。
自己否定の沼に沈み込むこともだいぶ減ったし、鬱憤を泥酔に変えることもだいぶ減った。
今でも、自分はマジで仕事ができない人間だと思っているし、実際そうだけど、なんとかしてやる〜〜〜と思える精神状態にはなった。
便宜上、後輩と呼ぶような人も増えてきたし、自分が上司なのだとしたらしゃんとせねば、と思うようになったのかもしれない。
本質的に私は涙袋ブクブクだこちてドラゴンなので、非常に大きな一歩を踏み出したのかもしれない。
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久しぶりになんとなく文章を書いているが、以前はよく文章を書いていたなと思った。
特に大学生から、社会人1年目にかけてのあの頃。
思い返せば、半ば自慰行為だったと思う。決まって酩酊した時にキーボードを触っていた。驚くほどにミスタイプするので、目を細めながら打ち直していたのが懐かしい。
そんなことをふと思った夜でした。
また明日からちゃんとしよ〜〜〜〜〜
おまえの中のTruthは何だ?
おまえの中のTruthは何だ?
大学の先輩が、酔っ払って発していた言葉をふと思い出した。
ぼくにとってのTruthって何なのだろう。
そもそもTruthって何やねん、とも思ったけれど、ぼくにとってのそれは、きっと”平和であること”だと思った。
浮き沈みがあったとしても、穏やかな日常の方が性に合っているし、毎日特別な何かを享受し続けていると、少しこってりしているなあ、と思うだろう。
何となく、穏やかで平和で、点で嫌なことがあったとしても、総合的にみると普通でよしなな毎日。それがぼくにとってのTruthなのだろう。
そんな意味で、某通り商店街の某kenohiはとても気に入っている場所なのだ。
店ではハンバートハンバートが流れ、ハンドメイド感溢るるごはんがあり、菩薩のように穏やかな店主が鎮座している。
これは、”穏やか”のイデアである。穏やかな日常すぎて、もはや特別ですらあるが、とにかく穏やかなのである。
何というか、全てがちょうどいいのだなあ、とこの文章を書きながらしみじみ思った。
某ひかるさんの人間らしい魅力もそうだし、ごはんも飾り気なく味わい深いし、場所もすごくちょうどいいのだよなあ。平和通りて。そら平和ですわな。
あまり長々しく書いてもなあ、と思うので、最後に某kenohiで撮った写真を貼って終わろうかなと思う。このままだと「穏やかだなあ」「平和だなあ」以外語彙を失う気がしてきたので・・。ビバ・平和。
季節と色
まだ寒さは続いているけれど、お昼間は少しだけぽかぽか陽気な、そんな季節になってきた。
仕事の合間によく煙草を吸うのだが、屋上のその喫煙所から見える景色が、過ぎゆく時間と共に移ろっている、そんなことを感じた。
何回か同じようなことを書いた記憶があるが、季節には、特段その季節が孕む空気感には、それらしい色味があるのだ。
今は、冬。少しその冬も開けようとしているが、冬は水色だ。
霞んだ雪のような、少し白いもやのかかった水色。
どこか切なげで、それでいて凛とした不思議な色である。
水色というよりは、藍色に白いフィルターをかけたような色な気もするが、細かいことは気にしない。
ぼくは、冬の色が一番好きなのだ。
それと対照的なのは、やっぱり夏。
何に拒まれることもなく、真っ青。
これでもかというくらいはっきりとした空の青さと、真っ白な入道雲のコントラストが印象的な世界。
黙々と天に登る雲は、真っ青で愚直なあおいキャンバスがあるからこそ映えるのだ。
あの青さがあるから、木陰で飲む、薄水色のラムネ瓶が綺麗に見えるのかなあ、なんて。
久しぶりに自我を保ったまま酔っ払ったので、なんとなく最近思ったことを文章にしてみました。
春は桃色、秋は薄い黄土色。今は微塵も感じることのできない、そんな季節も、気づいたら目の前にあることでしょう。
それでは、また。
雑記 左手
最近、久しぶりにギターを触りはじめた。
特に新しい曲を弾いてみるわけでもなく、昔弾いた曲を適当に引くくらいではあるけれども。
その中で、以下数点の発見があったため、それぞれ詳細に解説する。
- 大学時代に練習した曲はことごとく弾けなくなっている
- 中・高校生の頃練習した曲は意外と弾ける
- 左手の指先が壊滅的に柔らかくなっており、当時の様に弾けない
1.大学時代に練習した曲はことごとく弾けなくなっている
これは割とショックだった。TMGEのブギーとかエレクトリック・サーカスとか、そのぐらい単調な曲だったら今まで通り弾けるけど、死に物狂いで練習したバズマザーズとか、ちょっとテクいフレーズやコードが入っている曲は見事に全滅だった。
ちなみに弾いたことないTHE TOKYOはなぜか弾けた。おかしいだろ。
2.中・高校生の頃練習した曲は意外と弾ける
弾ける。超弾ける。なんなら前よりうまい気がする。Alice CooperとかTeslaとか、大満足レベルで弾ける。気持ち良すぎる。今度ちゃんとラインで録って動画でも撮ろうかな、そのくらいの勢いである。
HR/HMはパワーコードばっかだしリフも単調だろうと言われればそれまでではあるのだけれど、ちゃんとピロピロしたソロもゲイリームーアばりの泣きのソロもいけたので許して欲しい。
ちょうど今髪を伸ばしているので、80〜90年代のいわゆるHear metalでもやってみようかしら。
3.左手の指先が壊滅的に柔らかくなっており、当時のように弾けない
痛い。とにかく痛い。弦が指先を切り裂いて涙を流した中学生時代を思い出す。
ハイフレットのチョーキングとかが痛すぎてしんどい。
とはいえ爆音ヘッドホンで弾いているので、ある程度のアドレナリンがなんとかしてくれはしているのだけれど、それでも痛い。
それこそ毎日のようにギターを弾いていた時の指先は笑ってしまうほど硬くて、机に指先を当てると、爪を当てているような甲高い音がしていたものである。
それを考えると、人間はちゃんと日々生まれ変わっているのだなあと、気付きたくない形で気付かされてしまった。
あと普通に人間ってすごいなと思うのだが、まだ数日しか弦に触れていないのに、もうそれなりに硬くなってきている。柔らか退化の次は超成長か。
ーーそんなこんなで、久しぶりに楽器に触れる日々を送り出しました。
幸いギターだけではなくシンセサイザーなりマイクなりもあるので、たまには音楽を作ることでも再開してみようかな、そんなことを思いました。
了!
こう、なんだか、つらつらと
最近、よく目が覚める。
昨日は確か11時ごろに入眠したのだけれど、なんだか目が覚めてしまった。
こう言う時は煙草の2、3本でも吸いながら適当なことをしていると大概もう一度ねむみの森がやってくるので、今はその2、3本を吸いながらこれを書いているという訳である。
いやはや、不眠症とはかれこれ長い付き合いである。
長年の友達がいない訳ではない。中学の頃知り合って未だに関係のある友達も数人いるし、高校だともう少し多いし、大学も似たような感じだ。
ただ、「沢山の人とずっと仲良くいる」ことが不得手というか、元来得意なことではないので、「1人の人と仲良くし続ける、あるいは関係値を保ち続ける」という点においてもそれは同じだ。
そう考えると、不眠君、あなたは特に仲良くしたくもないのに、ずっとぼくの隣にいてくださるの、そろそろやめてくださらないかしら。
あなたといることで幸福の森に住めるのであればなんにも言わんよ。多分。
けれど、「眠りにつかせない、眠っても起こす」はあかんでしょう。
その結果ブチギレる体力もこちとらねえのですから。
ちょっと腹立ってきた。その一方で、また少し眠れる気配がしてきた。
引き際を理解しているのか?天才なのか?
そうであるならば、とっととぼくでも他の誰かでもない、違う惑星の石とかにでも憑依してください。
ロング・グッドバイなのです。
不眠症くん、それじゃあ、また。
明日も同じことしたら怒るからな💢
雑記 在るということ
今日は久しぶりに外に出た。
大学時代に住んでいた武蔵小山という場所があるのだが、その中でもとりわけ目黒本町という場所がすきで、今でもたまに赴くことがある。
目黒本町には「平和通り」という小さな商店街があり、読んで字のごとく平和で、のほほんとしている。
人の流れがあってもなくても、不思議と人の生活みたいなものを感じることのできる場所で、知りうる限りいちばん時間がゆっくり流れるところだと思う。
そんな平和通りには学生当時足繁く通ったちいさな喫茶店があり、卒業して武蔵小山を離れた後も気が向けば足を運んでいる。
行くたびに他愛のない会話やちょっとした(ちょっとしてない場合もあるが)相談などに乗ってくれる店主さんがおり、多分に漏れず今日もそんな感じで色々と会話をした。
ここ暫くの間「たまには外に出ないとなあ」、そうぼんやりと思っていたのだが、今日はそれがよりはっきりとした輪郭になったというか、何か確信めいたものに変わったような気がした。
家で一人で過ごす時も、どこかに出かけて誰かと過ごす時も、自分がそこに存在しているという事実は何も変わらない。
けれど、一人でいるときの自分と誰かといる時の自分は、きっと別の自分なんだろうな、と思う。
どちらが良くて悪くて、という話では全くないのだけれど、確かに違う何かがそこには存在している。
ぼくはいつでもぼくだけど、昨日のぼくと今日のぼくはきっと違うぼくだし、それは、はて、同じ人間なのだろうか、みたいなことときっと同じで、単一の時間の流れの中でも、ぼくはぼくだし、ぼくはぼくではない。
そう思うと、幼い頃の記憶、例えば祖父母に遊んでもらったぼくや中学生の頃不登校になったぼくは、果たして今のぼくと全く同じ人間だと言えるのだろうか。
生物学的に見れば同じ以外の答えはないのだが、なんだか、こう、広義の意味ではきっと違う人間なのではないかなあ、なんてことを思う。
例えば今のぼくは精神衛生もなかなかにご機嫌だけど、上司にモラハラされて死にかけていた去年のぼくと比べると、それこそ天と地の差があるわけで。
ぼくの「状態」としてそれぞれの変化を捉えれば全部一様にぼくはぼくだ。けれども、これは本当になんとなく、特に意味のないこだわりなのだけど、ちょっとでも違いがあるのであればそれは別の人と言い切ってもいいくらい大きな差を感じるのだ。
詰まるところ、何か大切なことを発表せんとしているわけではないのだけれど、なんとなく、そんなことを思った1日でした、という記録でした。
了!