雑記 友達

その年の冬、私は変わってしまった。と言っても、何が変わったのかは自分でもわからない。ただ、周りの人々に言われると言うだけで、本当は何も変わっていないのかもしれない。「自分は変わったのかもしれない」と言う憶測だけが一人歩きして、がらんどうのような気分になる。ごく最近の話だ。


「人間はそう簡単に変われるものじゃないよ。」これはk先生が私にくれた呪いの言葉だ。変化について考える時、いつもあの人の声が頭の周りで響く。それでも、今の私はやはり3年前の自分とは違うのだと思う。長いとも短いとも言い得る3年という月日をかけて、私の代謝は心の中にまで及んだのだ。

 

先生との出会いは、いささか印象の薄いものだった。確か、私が渡り廊下でうつらとしていた時、「御機嫌よう、眠いのでしょうか」と声を掛けられたのが最初だった。その後も特段印象的な会話がない。限りなく普通の人と言うのが私の中の先生像である。ただ、人間はそう簡単に変われるものじゃないという言葉だけが、古い鉄鍋に居座る錆の様に私の脳の奥底にこびり付いている。


件の先生は3年前に死んだ。あの言葉も当時のものだ。その表情は不思議で、憂も哀愁もなく、しかし晴れやかでもない。形容し難い表情だったのが妙に印象的だった。


葬式の場で私は涙を流さなかった。黒ずくめの参列者たちが作り上げる妙な静けさ、糞坊主の“有難い”説法、暗い葬式の場を飾る鮮やかな花々、そして何より死体の発する臭気。そのどれもが私の苦手とするものたちだったのである。


こういう場に似合うのは死者を悼み、その喪失を嘆き悲しむ姿勢である。だが、ここで私がいつも思うのは、人が死ぬことは果たして悲しいことなのだろうか。私にはどうも、生きることは即ち善であり、その反対の極にある「死」というものには常に悪いイメージが纏っているように感じられるのだ。


そもそも誰のために生きるのか?我々は皆等しく、かつ自己意志に基づかずこの世に生を受ける。しかし、内的・外的要因など文字通り人様々で、何の疑問も感じ得ずに生きられるものもいれば、疑問の海に溺れ、自分を見失うものもいる。


結局、生きるとは有機物の無駄遣いなのではなかろうか。考えても考えてもそうとしか思えない。疑問符を持たない人間こそ悪だ。彼らの作り出したスタンダートが大衆のスタンダートになり、合意形成が行われる。そうして、彼らの作り出した海に私は溺れている、と言う訳だ。


こんな状態なら死んでしまった方がましだ、と幾度となく思ってきた。死ぬことは悪でなないのだから。生きることも死ぬことも、活かすことも殺すことも、全て悪であり善であるのだ。結局答えはその個人の中にしかない。だから、私にとっての善は他人の悪になり得る。けれども、決めるのは私だ。私自身だ。私が、私なのだ。全てを腹の中にしまっておいてください。


この手紙は、彼の自宅で発見された。首を吊った「私」が発見されたのは、2週間後の昼過ぎであった。腐乱した遺体が放つ異臭は凄まじく、けれども皮肉なことにそれが発見のきっかけであった。これが彼の望む形だったのか?それは彼しか知らない。彼が、彼なのだから。