雑記 さらば喫煙所

二限行ってくる。

 

彼はそう言って火を消し、階段を上り、早足で向こうへ行ってしまった。ここは食堂の下に在る喫煙所。時計の針は十時五十二分を指している。


日常的に煙草の煙を上らす者は、自分の中で、決まってそれをする場所がある。ぼくと彼、あるいはまた別の喫煙者にとって、その場所がここだ。登校した時、授業と授業の合間、腹を満たした後、帰る前、いつ何時でも、特に理由もなく来るのだ。


昨日も、今日も、そして明日も。きっとこのルーティーンが変わることはないのだろう、と思った。


いつも通り、手持ち無沙汰な時、気が向いた時にここに来て、元から居た人、後から来た人と他愛もない会話をする。ここで友人になったものもいれば、ここではじめて会う約束をした人もいる。広いようだが狭くもあり、狭いようで広い。ただ、その場にいる人々の手には必ず、燃えていく煙草の火があったのだ。

 

 


ぼくの思った通り、やはりルーティンは崩れることなくただ月日だけが経っていった。

ただ、月日が経つと言うことは我々の牙城も変わると言うことで、それは階段下の狭い一角から、木に囲まれた少しばかり広い場所へと変わった。


とはいえ、やっぱり変わったのは場所だけで、人も、会話も、何も変わらない。冒頭の友人は今日も授業へ駆けて言ったし、又別の友人は今日も地面に胡坐をかき煙を撒いている。別の人だって同じだ。名前も知らないあの人は、今日も「あの人」をしている。

きっと、向こうも同じことを思っているんだろう。話したことはないけれど、毎日喫煙所で見かける故覚えた人。ここにいる殆どの人がそんなことを考えているのではないかと思ったりする。特に意味もなく、ふらふらとそんなことを考えながら、全く知らない人達とでさえ同じ概念を共有しているだろうことに、嬉しいような一寸気恥ずかしいような、不思議な気持ちになった。


結局、どんな場所でもそれが果たす機能は不変だし、そこに立ち寄る人も同じだ。けれど、それが特定の場所であるからこそはじめて「記憶」として成立つし、それに対する追憶にも意義があるのだ、と思う。こんな気温の、こんな匂いの日で、という要素と同じように。


だから、場所が変わったとて少し時間が経てばそれが日常になるし、当たり前の一部になる。そして、またそこでの日常が意義ある追憶の対象になるのだ。


そういう訳で、もの寂しさは然程無いのが正直なところで、それよりもぼくらの牙城だったこの場所がこの後どう使われるのか、とか分散していた喫煙者たちが一点に集められると流石に人口密度がとんでもないことになるのでは、とか思ったりする。


何人も時代の潮流には逆らえない、という故事の真理は、小さな島国のごく限られた喫煙者たちの、ちょっとした事件にも当てはまり、少し可笑しく感じられた。反発すること、不満を垂らすことは必ずしも逆らうことに成り得ないのだ。


逸れたが、結局成るように成る。その場所から機能が失われても、その場所における記憶は残る。寧ろ、無機能性が高い程その追憶性も上がる。何とない日常が失われたものとして浄化され、印象付けられる。ぼくは大いに浄化すれば良いと思っている。適当に懐かしみ、語り草にすれば良いと思っている。そろそろ書く気力が無くなってきたな、とも思っている。

 

 

 

最後に、日常を作ってくれた日吉の食堂下喫煙所、そして新しい友人を沢山作ってくれた三田喫、感謝!