雑記

何かに手を付けて、こと読書に関しては、途中でアアなぜ今こんなことを勉強して何になるのかという気持ちに包まれ、ええやめてしまえという心待ちになるのがここ暫くの常である。

 

大学ではかなり怠惰な人間ではあったけれども、知的探究心の及ぶものは、自分にとっては割と真面目な方であったと思う。

 

今は、というか去年の夏から本格的に哲学を勉強し出したのだが、種々の哲学本を読み進めているうちに「はてこれが今後何の役に立つのやら」という心持ちに苛まれ、挙句の果てに「ぼくは今何をしてるのか」という根源的な問いに直面する。

 

ギリシア哲学からイスラームの文芸復興を挟みスコラ哲学に再帰して、さてカントがどうだとかソシュールがどうだとか、表面状の知識は得たつもりでいる。浅はかな「表面上の知識」ではあるけども、少なからず得てはいる。

 

これを実生活に移すとなるとはてどうするか。

今まで馬鹿の一つ覚えで他人に迷惑をかけ続けてきた人間が唐突に生真面目になれる訳でもなく、哲学者の考えを生活に生かせる訳でもない。

今までの諸々の素行が、今行っていること全てを阻害している。現世は勧善懲悪のフィルターをかけられたものであるから至極当然の話である。

 

人間は生まれながらにして原罪を背負うといつかの神学者は口にしていたが、その原罪に加えて自身の悪事が重なる故ひとりでは抱えきれなくなった。

わかりやすく言えば、軽率にもやることやりすぎて全てが倍になって帰ってきているわけで、さらにその客体側のことを何故か深く重んじてしまい、泥沼の渦潮にいとも容易く飲み込まれていくのである。

 

自分が明治や大正に生きて、簡易生活なる言うなればある種新取的な考えを持っていたらどうだろうか。

 

破滅的なほどのノスタルジーに押しつぶされること必須である感は否めないが、どうやらぼくは現代社会で真っ当に生きること、レールの上を歩くこと、レールを踏み外してもそのままで生きていくことはどうも難しいらしい。

 

結局「自分が迷惑をかけた、傷を与えた」ことを言い訳に、それを理由に勝手に厭世チックな思考に陥っているだけなのではなかろうか。

 

然れども、結局今はそれなのである。

 

就活をしていた時、大学にいた時、バンドをやっていた時、そして家でギターを弾いたり酒を飲んだり、それこそこの文章を毎日書けていた時。

 

そんな時はここまで深々と物事を考えることは出来なかったし、ある種逃亡していたかのように思える。

 

結局のところ、人のためにも自分のためにも特に何かしらの行動が起こせていないから今があるわけなのだ。

 

迷惑をかけてきた人たちにとっては、ぼくが重度の鬱病不眠症になることなんて微塵も関係ないのである。

何故なら「本質的な悪」はぼくなのであって、ぼくがどうなろうが関心などないからだ。

或いは、例え関心があったとて、気に留めないであろう。

虚言に塗れた自分語りを続けてきたので、ぼくの話すことや書くことには一切の信憑性も重みもないからだ。

 

はてこの先ぼくは生きていけるのだろうか。

同期、先輩、後輩でもこんな状況に陥って独り耽溺している人なぞつゆもしらぬ。

 

明日のぼくは今日のぼくと変わらないのでしょうか、それとも変わっているのでしょうか。

 

それは今夜見る夢にでも託そうかなと思います。

早く金縛りと悪夢から抜け出したいけれども、犯してきた罪が消化せらるまでは厳しいだろう。或いは消化せらることがあるのだろうか。

 

そんなことを思いながら、この数日間は駄目になっています。