花  短編

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花が、咲いていた。

 

私の生家は所謂田舎という所で、毎年生命が息吹きだす頃、庭に名も知れぬ花が咲くのである。其の年は何時に無く冷え込んだ年で、例年ならば其処ら中に咲々の花達は見当たらず、塀壁の角の方に、ひっそりと、たった一輪の花が咲いて居るのみであった。

 

其の花は、之と言って目に立って挙げるような所は無いが、凛と花びらを広げ、色濃く鮮やかで、官能的な佇まいであった。しかしそれでいて、何処か物寂しく、憂感を漏らしている、不思議な花であった。ずいぶんと長い間生家に居していた私であるが、一度も見た事の無い花であった。えも言えぬ魅力、とでも言えばいいか、恰も花から引力が発せられているような強い魅力である、それがあの花にはあった。

 

私は、毎晩縁側に座って、当時売られ始めて直ぐであった蚊取り線香に燻られながら、ただぼうっとそれを眺めたものだった。思考の境界線を溶かされ、頭の中は何も無くなった。口を訊く訳でも無い、感情を持つ訳でもない花に、である。無機質でいて何処か有機的な、不思議な花であった。

 

蜩とともに、其の花は消えていった。段々と色気を無くしていった其の花は、或る日、朽ち果つる前に姿を消した。何とも不思議な話である。野良の猫が戯れて折れてしまったのだろう、とでも考えて自分を納得させたのをよく覚えている。

 

其の晩の事である。既に臥していた私であったが、丑の刻あたりに微睡から醒めた。名前を呼ばれた気がしたのである。大きな声で叫ばれた訳でもない。しかし、ぐい、と胸を締められる様に聞こえてきた其の声元は、顔上であった。

 

女が座していた。

 

其の女は驚いて口も訊けぬ私に、無言で手を翳した。別段特徴のある女ではなかったが、私は其の瞬間に全てを察したのである。ああ、と。

 

「何故突然いなくなってしまったのかね」と訊いた。

 

女は何も言わなかった。

 

女が言を発するか否か、と言う其の時に、私は又、微睡みの中へと落ちていった。

 

次の日の朝のことである。

 

私は昨晩の感覚を帯びたまま、縁側に出て、東の空から照り付ける天道様に目を醒まして貰っていた。其刻の夢、と塀壁の角に目を遣るが、昨日と同じである。

ふう、と溜息をして立ち上がり、居間へと戻った。

 

「また、明くる年に」

 

縁側から昨晩の女の声がした気がした。驚いて直に戻るが、先刻と変わらない、其の景色であった。

 

其の次の年の春、私は仕事で東京へ出ねばならなくなってしまった。彼の花が気がかりであったが、如何の仕様も無い。

 

其処から数える様に年が過ぎた。

 

そして、上京して十二年目になる今年の春、祖父の逝去と共に生家も取り払われる事となった。長い事忘却せられていたあの花の事をふと思い出し、九州へと帰郷する事にした。

 

逝く直前まで、祖父が手入れをしていたおかげで、庭は、其の当時の面影の大半を残していた。久しく腰を下ろさずにいた縁側に座り、塀壁の角に顔を向ける。

 

「長らく」

 

一言だけ、角に向けて話した。あの花は其処に居た。

 

十数年間の間、毎年此所に来ていたのだろうか、等と考える。若し、そうで有るならば、余にも健気である。待ちくたびれたろう、と呟いた。其の声は、彼女に届いているかは定かではない。

 

 

私の両の目は、普段よりも幾分潤っていた。

 

 

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