うさぎと祖母とノスタルジー
うさぎ飼いたい。
家にいるとき、家から出るとき、家に帰るとき。一緒にいてくれる何かが欲しい。
こう文字に書いてみるとなんとも傲慢な感じではあるが、実際そうなのだから仕方がない。
週4くらいで友達が泊まりに来ていたフリーダムな生活をしていたときはペットを飼いたいとさほど思わなかったので、実際今のぼくはただ寂しいだけなのかもしれない。
実家には今年で10歳になるくろまめという黒うさぎがいる。命名したのはぼくである。
生まれたてでうちに来たとき、まっくろくろすけのようで、そしてちょこんとした見た目がえもいえぬ尊さだったのが懐かしい。今はすっかり体も大きくなって、そしておじいちゃんになった。
この前、まめが生死を分けるかのような手術を受けることになったので、頭の中はまめでいっぱいになっていた。術後、「ひとまず成功」との報告を受けても心配は絶えなかったが、昨日お父さんが元気にご飯を食べてちょこちょこ走るまめの動画を送ってくれたので、だいぶ安心した。
高校受験も大学受験も、まめがいたから頑張れた気がする。
疲れたなあと思って寝っ転がったら、背中にぴょんと乗ってくるのだ。
おでこを撫でてやると、もっと撫でろと言わんばかりに気持ち良さそうな顔をするのだ。そりゃあ撫で続けるし、向こうは気持ちいいのか寝てしまう。本当に可愛い家族である。
なんとも最高な日常ではないか。
こういうのが今のぼくに必要なものなのかなあと思っていたが、文章を書きながらなんだかまめの代わりを探そうとしている自分に気づいて気持ちが悪くなった。
うさぎを飼いたい、というよりかはまめのいた日常が欲しい、が正しい。
ペットを飼うとなると、その子の命を預かるのはいうまでもなくぼくになる。
そもそも論、自分を大切にできない人間が他者を大切にできるのかという大問題はあるが、ことペットに関してぼくは問題ない気がする。逆に甘やかし過ぎてしまう気しかしない。
ただ、家族を増やすこと、つまりこの先ペットを飼うことはどうもぼくにはできない気がする。
どんな生き物でも、生まれると同時に直線的に死に向かって行くわけで、いわゆる生と死の両面性みたいなものがある。今を生きるために生きていても迫る死からは逃げられないのが現実だし、生き物の生には死が介在しているものなのだ。
回りくどいが、要するに多分ぼくより早く死んでしまうのがやるせないから飼えないのである。17年前に亡くなった祖父の死も反芻しきれていないのに、毎日家で一緒に暮らしたペットが死んだ時のことなんか考えられない。
仮にペットを飼ったとして楽しい日常を送っても、その全てがいずれ過去形になってしまうのが悲しいのだ。
あの時こう「だった」なあとか、あの時あいつこんな顔「してた」なあ、みたいな感じで。
現在形が過去形に変わることが嫌なのではなくて、「そこにあった日常が今現在存在しないものになった」のが嫌。だから当然過去形を使わざるを得ないだけで。
いつもはお得意のノスタルジスト気取りで、あの時楽しかったとかあの人ともっと仲良くしておきたかったとか過去形の話ばかりしているが、ことペットの話となると違う。
命が絡んでくるから。
熱帯魚でもハムスターでも犬でも猫でもうさぎでも爬虫類でも、みんな一様にぼくらと同じ命を持っているわけで、しかもその子たちの行く末はぼくらが握っているわけで。
という話を最近祖母にした。地元に住んでいた高校時代までは、週一で一緒に映画館に行くほど仲の良回い祖母。上京して地元を離れてからは週一、二回くらい電話をしている。映画の話をしたり、音楽の話をしたりして、だいたい1、2時間は話し込む。
そんな御歳75の祖母はびっくりするくらい映画に詳しいので、卒論(映画についての研究だった)を書いた時にはかなりお世話になった。白黒時代の映画から最新の映画まで詳しくて、オススメの映画を定期的に教えてくれる。小さい頃からずっと映画館に連れて行ってもらってきたので、ぼくの趣向=祖母の趣向なのだ。だから、ぼくの知らない映画を教えてくれるし、ぼくは祖母の知らない映画を見つけたら教えてあげる。教えても、だいたい「あ、〇〇主演のやつね、ハンサムだし音楽もいいのよねえ」とか返されちゃうけど。本当にすごい。
話が脱線するどころか脱線した電車が重大インシデントを起こしてしまったが、そんな祖母にペット飼いたいな〜みたいな話をしたんです。そしたら祖母は笑いながら「結婚したらいやでも毎日一緒に生活せんといかんとよ、やけん今の生活を楽しんどき〜」と言われた。
そうか〜確かにそうだな〜と思いつつ、結婚というぼくからもっとも遠いであろう人生のターニングポイントを考えると頭が痛くなってしまった。
そもそもそこに至る前に今のゴミの具現化状態からある程度人間を具現化したものくらいにはなっておかないといけないわけで、難しいなあと思いました。
人生そんな簡単にいきまちぇんわよ。蘭たんのハム実況一気見したせいでリボンちゃんの話し方がうつってしまいまちたわ。
これが23歳独身男性の現実です。常に理想は低く保つことは、崇高な理念に対するアンチテーゼたり得るのだろうか。
とここまで書いてきて思ったのだが、ぼくの書く文章の構成がだいたい自分で把握できた気がする。
①日常感じたこと⇨②さして関係のない話題転換⇨③自虐と自分語り
さながら地獄の三段活用、起承転結も何もない。終着駅は自分語り。
就活の時にぼくの強みは自虐的な性格と自分語りです!と言っていたら今よりもハッピーだった世界線はあるのだろうか。
可能性としては存在すると思う。今の会社の面接受けた時にそんなこと言えるはずもないし、元気です!協調性が!とか言ってたから。
眠くなってきたのでそろそろこの辺にしとこうかな。眠くなってきたということは睡眠薬が効いてきたということで、睡眠薬が効いてきたということは健忘が出ているであろうということで。
多分明日の朝、書いたことを覚えていないような2503文字を無為に錬成した午後10時過ぎ。
それでは、また。