雑記 在るということ

今日は久しぶりに外に出た。

 

大学時代に住んでいた武蔵小山という場所があるのだが、その中でもとりわけ目黒本町という場所がすきで、今でもたまに赴くことがある。

 

目黒本町には「平和通り」という小さな商店街があり、読んで字のごとく平和で、のほほんとしている。

 

人の流れがあってもなくても、不思議と人の生活みたいなものを感じることのできる場所で、知りうる限りいちばん時間がゆっくり流れるところだと思う。

 

そんな平和通りには学生当時足繁く通ったちいさな喫茶店があり、卒業して武蔵小山を離れた後も気が向けば足を運んでいる。

 

行くたびに他愛のない会話やちょっとした(ちょっとしてない場合もあるが)相談などに乗ってくれる店主さんがおり、多分に漏れず今日もそんな感じで色々と会話をした。

 

ここ暫くの間「たまには外に出ないとなあ」、そうぼんやりと思っていたのだが、今日はそれがよりはっきりとした輪郭になったというか、何か確信めいたものに変わったような気がした。

 

 

家で一人で過ごす時も、どこかに出かけて誰かと過ごす時も、自分がそこに存在しているという事実は何も変わらない。

 

けれど、一人でいるときの自分と誰かといる時の自分は、きっと別の自分なんだろうな、と思う。

 

どちらが良くて悪くて、という話では全くないのだけれど、確かに違う何かがそこには存在している。

 

ぼくはいつでもぼくだけど、昨日のぼくと今日のぼくはきっと違うぼくだし、それは、はて、同じ人間なのだろうか、みたいなことときっと同じで、単一の時間の流れの中でも、ぼくはぼくだし、ぼくはぼくではない。

 

そう思うと、幼い頃の記憶、例えば祖父母に遊んでもらったぼくや中学生の頃不登校になったぼくは、果たして今のぼくと全く同じ人間だと言えるのだろうか。

 

生物学的に見れば同じ以外の答えはないのだが、なんだか、こう、広義の意味ではきっと違う人間なのではないかなあ、なんてことを思う。

 

例えば今のぼくは精神衛生もなかなかにご機嫌だけど、上司にモラハラされて死にかけていた去年のぼくと比べると、それこそ天と地の差があるわけで。

 

ぼくの「状態」としてそれぞれの変化を捉えれば全部一様にぼくはぼくだ。けれども、これは本当になんとなく、特に意味のないこだわりなのだけど、ちょっとでも違いがあるのであればそれは別の人と言い切ってもいいくらい大きな差を感じるのだ。

 

 

 

詰まるところ、何か大切なことを発表せんとしているわけではないのだけれど、なんとなく、そんなことを思った1日でした、という記録でした。

 

了!