昔のぼくを買う、ということ

博多ラーメンの膳。帰省するたびに「美味しいなあ」と足を運んでいる。ぼくが美味しいと思えばもうそれはそうなのです。

 

思い返すと高校時代は当たり前だが金銭的な自由が無かった。まず高校受験で第一志望の公立に落ちて私立に行くことになり、それと同時に親が共働きになったので、何とも言えない後ろめたさがあった。

部活はお金がかかるので7年続けたバスケを辞め、帰宅部になった。じゃあ勉強しようかと思ったが、いかんせん引け目があるので塾に行きたいとは言えない。結局ローンチされたばかりの受験サプリ(現スタディサプリ)をお小遣いで契約して勉強することにした。今考えると別に塾とかサービスとかが無くても勉強は出来るだろうよと思うけれども所詮高校生である、「頭のいい人=塾通い」みたいなことを意識していた。「通塾してないのに頭がいい人」は天才かつ影でめちゃめちゃに勉強していると思っていたし、実際めちゃめちゃに勉強しても結果が出なかったので受験サプリを契約した。今考えるともっと効率的な勉強の仕方があったやろうもんと思う。たらればを反省点に出来る人間になりたい。

 

ちなみにその当時のお小遣いは1ヶ月5000円で、通学の電車代に当てたり文房具に当てたりしていた。基本的に雨の日以外は自転車通学で、片道は大体5-6kmくらい。海沿いを走る道なので晴れた日はとても気持ちが良かった。

一方梅雨時期は殆ど電車を使わざるを得ないので、みんなが焼肉に行ったり回転寿司に行ったりしているのをいいなあとか思っていた。雨が降ると財布は軽くなる。コンビニで買い食いするのもちょっと憚られた。

 

そんなこんなで基本的にあまり余裕のない高校生活(当たり前だけど)だったので、安いものを必要以上に美味しい美味しいと言って楽しんでいた。まあ実際美味いので仕方がない。

 

その一つが「膳」というラーメン屋だ。福岡では専ら博多ラーメンが主流で価格帯も低いのだが、ここは一杯280円と中でも安い。(少し前までは100円ラーメンも存在していた)

当時は少し余裕が出ればすぐ行っていた、懐かしい。勉強と勉強の合間に、沢山の生ニンニクを潰してスープを完飲した。高校時代のぼくにとってはスーパーハッピーな瞬間だった。

 

今でこそ320円と少し値上がりしてしまったが、それでも安い。帰省するたびに行く。嘘ではない。

そして味に関して言うと、普通に美味しい。けれども正直なところ「絶品でめちゃめちゃに美味しい」という訳でもない。いつ行っても「まあこれは膳の味だな」と思う感じ。

でも帰省するたびに行ってしまうし、昼に食べて夜の飲み会のシメに食べる、なんて日もザラにある。

 

そこで感じるのが、ただ「安くてうまいを買う」という構図だけではなく「付加価値がある」からこそ未だに行く、と言うことだ。膳の場合はノスタルジックな付加価値で、「あの時よく行ってたなあ」とか思いながら麺をすするのである。

 

同様に煙草もそうだ。例えば卒業論文を必死に書いていた時によく吸っていたglo「ネオブーストミント」は吸うたびに卒論を書いていたぼくの記憶が引っ張り出されるし、今も昔もずっと吸っているハイライトのメンソールを吸えば、その時々の経験を想起させる。たまにピースとかボヘームのモヒートダブルとかも買うのだが、そういう類のを吸う時は普段と味が違う分尚更である。

 

 

モノと体験/記憶を結びつけることは別に不思議なことでも何でもないだろうけれど、何だかそれによる体験/記憶を想起する度合いはとても高い気がする。

 

そのときのぼくが感じたこと、その場の雰囲気、匂い、周りに誰がいたか、どんな話をしていたか、などなど。びっくりするくらい細かく、それも鮮明に思い出すのだ。人は過去の記憶を美化する習性があるというが、これに関してはただ純粋に思い出している気がする。

 

そしてぼくの場合、それが相当の頻度で何らかの購入動機に繋がっている。これこそ本文で言いたいことである。

 

例えばあの夏はこれ吸ってたなあ、と言う理由でマルボロのアイスブラストを買ったり、落ち込んでいた時に吸っていたからとか思いながら、気の浮かない日はピースのアロマロイヤルを買ったり。過去の自分を追体験するべく何かを買っているのだ。ぼくは昔のぼくを買っている。

 

ノスタルジーを希求しまくる自分はもはや何者なんだと少し頭が痛いが、モノーーこの場合は特に煙草ーーにはいろんな記憶が詰まっている。ずっと手元にあるモノはそれだけ付随する記憶も多い。

 

ぼくはその記憶を想起/追体験するためにいつもと違う煙草、つまりハイライトのメンソールではない煙草を買う。だから換気扇の下にハイライトしかない時は少なくて、大抵他の煙草も一緒にある。それで言うと今はマルボロのオプション。大学一年の夏に一時吸っていた煙草で、「懐かしいなあ、楽しかったなあの時」とか思いながら吸っている。言語化するとかなり気持ちが悪い。

 

とは言え、自分が置かれている現状や感情への対処として、モノで昔の記憶を手繰り寄せ、ちょっとした安寧とかを得ている人は割と居るのではなかろうか。

 

例えば音楽もそうだ。よくある話で言うと「青春時代によく聴いてたもんだ」とか言いながらレコードをかけるおじさんとかまさにそれである。音楽と言う"モノ"がトリガーになって、当時の出来事や感情とかを思い出す。ノスタルジックな気持ちになってその一時は「懐かしい」以外の感情から殆ど解放される。これはモノと体験の結びつきの典型例だと思う。

  

 

と、文を書きながら思ったのだが、将来AIなりが発達したらその時々で「あなたは今こう言う感情だからこれを買うべき」みたいなリコメンドをされる日でも来そうだ。割とこれに関しては本当に来ると思うし、自分が知らないだけでもう来ているかもしれない。

既に気の向かない時にはこのプレイリスト、頑張りたい時にはこのプレイリスト、みたいなリコメンドシステムが存在しているのだから、購買の動機付けでも同じことが出来るはずだ。消費期間的な判断軸ではなく精神的な判断軸に則ったシステムで、その一つの基準に「ノスタルジー」的要素があっても何らおかしくは無いと思う。そもそも個々人の経験則自体その人の記憶で構成されている。

 

 

そんなことを思いつつも、「あなたは今日はロックな気分ですね、だからラッキーストライクを買うべきです」みたいなことを機械に言われたら苦笑してしまう気がする。でも、苦笑しながらその通りにする自分も目に見えていてちょっともどかしい。買っちゃうんだろうな。

 

今のぼくは昔のぼくを買っているし、たぶん未来のぼくは今のぼくを買う。

 

そうやって思い返せば、ぼくは今まで自発的に追体験を求めて生きてきた気がする。あの時は楽しかったなとかあの時辛かったなとか、思考の中にとにかく「あの時」が多い。

 

他の人はどうなんだろうかと思ったけれど、自分がただの懐古主義の思い出狂なのかもしれないし、たぶんこれは考えない方がいい問題だなとも思った。

 

一向にまとまらないね。そんなお話でした。