無題

おのれの行く末を思い、ぞっとして、どうにもならない宵は、よく、ふらふらと、愚鈍ゝゝと、路頭を抜けて行くのである。

 

「先行きならぬ不安」と「後見の悔」は、どうしてか、水と油。如何許りか。

 

ことに、去年の秋、ふと感じたものがある。ただ、感じたと言う訳では無い。胸中の奥深くを、鋭い槍で、ぐいと抉られる様な、感覚、である。

 

秋と言う物は、どうにか儚い。空気全体に朧げな雰囲気を有して居て、それが本質。蜉蝣、蜩、況んや真紅の紅葉。紅葉などはその典型で、枯行の木々から放出せらる、生命の終焉を、ひとはあゝ儚い、あゝ雅ならんや、と口出する。

 

或る人の文章に、「夏来るは秋来ると同。秋は我を陰影よりて見、北叟笑見て候。」と言う物があった。夏の到来に、時分を同じくして秋も到来して居り、秋は影から此方を笑って見ている、と言う。思わずして、蝉も、蜉蝣も、夏の虫では無いか。秋の圧に夏の間耐え抜いた木々たちは、力果たして真紅に染まるのでは無いか。

 

そう考えると、今迄私が秋へ感じていた、追慕の様な、哀愁の様な、悲観の様な、種々の思いは、なあんだこんなものかと、滑稽の念をば感ぜざるを得なく成ってしまった。

 

秋来るは冬も来りて、冬来るは春来る。えい面倒である。春が来れば全来る、全来れば、又全来る。