雑記 しゃぼんだま

今日はいつもより少しだけ長く眠ることができて、太陽がのぼりきってから寝室から出た。

 

ここ数日、ぐっと寒さが増してきて、ようやくしっかりとした冬の匂いが感じられる。

とてもうれしい。

 

冬の空気感や匂い、色、そして寒さ。どれもこれもとても愛おしくて、心の中でささやかに小躍りしている。

 

休日とは言っても今日は特段予定があるわけでもなく、とりあえず時間が流れるまま適当に過ごす。

 

買い置きしていた袋麺を茹でたり、珈琲を淹れたり。

なぜ冬はこうも暖かいものがおいしくなるのだろう。寒いから、という理由のみでは片付けられない、何か別の、言語化しづらい謎のステキ要素がある。

 

 

正午過ぎ、もこもこのパジャマを着て、羽布団にくるまりながら本を読んだ。

昔買ってから、一度も手をつけずに置かれていた、SFの本。いわゆる”積読”というやつである。

 

物心ついた時から、本は買ったその日に読み終わる性分だったのだが、どうもここ1、2年はそうもいかず、琴線に触れた本を買っては読まずに本棚の肥やしになる、そんなことが多かった。

正確な数はわからないが、たぶん、何十冊もそんな本がある気がする。

 

ここ最近になってようやく、すきなことをするのに気力が要らなくなってきた。

本来、趣味はがんばってやるものではないのだ。気楽にできるから趣味なのだ。

ぼくはそう思っている。

自分の中の気力のゲージみたいなものは、趣味で使うべきではない。

本来、そのゲージは、趣味で回復させるはずなのだ。

 

話が少し逸れてしまったけれど、まあ久しく活字に触れられていなかったので、少し疲れてしまった。面白かったのだけれど、以前の自分の「当たり前」は、今のぼくの「当たり前」ではなくなっており、少し物寂しい気持ちになった。

 

今日の読書はもういいかな、と本を閉じて、布団から出た。

キッチンで煙草に火をつけて、特に何かを考えるでもなく、害悪煙発生装置をしていたところ、食料を切らしていることを思い出した。

 

今週は「たまにはちゃんと外に出て人間らしく生きよう週間」なので、とりあえずパジャマにコートを羽織って、近場のスーパーへと向かった。

 

野菜とか牛乳とかを一通り買って、特に理由もなく、いつも通る道から一本逸れた道から帰ってみることにした。

 

ぼくの家はいわゆる住宅街の中にあり、帰り道にはマンションが並んでいる。マンションに囲まれていることには変わりないけれど、いつも見ない建物たちが並んでいて、道1つ変えるだけでこうも世界は変わるんだなあ、と当たり前のことを思った。

 

てくてくと歩いていると、突然視界の右上から変なものが見えてしまったぼく「あれ、なんかきらきらしている、、、」

 

いよいよ疲れでも出てきたのか、、など思いながら上を見上げると、2階のベランダで親子がシャボン玉を吹いていた。

 

久しく見てもいないし、最後にしたのがいつかすらも定かではなかったので、なんだか不思議な気分になった。

夕焼けが反射して、とても綺麗なぷかぷかたちは、そのベランダから大量生産されていた。

 

わざわざ言語化しない方が素敵なこともあるのではないか、と思うことがたまにあるのだけれど、今日のそれはどうもそれらしいな、と思った。

 

最近、なんだか味気なかった日常に、少しずつ色が戻ってきたような気がする。

1、2年前の日常はモノクロの世界で、なんだか無機質で機械的な毎日を送っていたなあ、と思った。

 

シャボン玉ひとつでそんなことを思わせられてしまったけれど、なんだかいい気分である。

 

たまにはあの道を通って帰ってもいいのかな、そんなことを思いながら家まで歩いた。

特に何かがあったわけではない平凡な土曜日だったけれど、いつもよりちょっぴり、いい日だったなあ、なんて感じた日でした。

 

なんとなく、雑記です

明け方、太陽が顔を出す少し前に、まどろみと少しばかりの寒さに包まれながら、目が覚めた。

 

もう少しだけ寝ようかなとも思ったけれど、なんだか気分が良かったので、そのまま起きることにした。

暖かい羽布団から出るのはちょっぴり寂しいけれども、何か暖かいものを飲もう、そんなことを考えながら寝室からのそのそと這い出た。

 

大抵この時期になると、手足だけシベリアにでも行って来たのかと思うほど冷めきってしまうので、とりあえず給湯器の電源を入れて、お湯を出す。

暖かい水で昨日の食器たちを洗うのだ。手も温まるし、家事もこなせるし、これぞ一石二鳥である。

 

洗面所に行って、顔を洗う。先の食器たちのおかげで、すぐお湯が出る。

洗ったら、すぐコンタクトを入れる。極度の近眼なので、眼鏡かコンタクトが無いと何にも見えない。もし彼らが無かったら、と思うと恐ろしい。

昔の人たちは本当に生きづらかったんだろうなあとしみじみ思う。先人様、本当にありがとうございます。

 

リビングに戻った時、そういえば暖かいものが飲みたかったんだ、と思い出し、とりあえずコーヒーを淹れた。冬場にホットコーヒーを飲むと、工藤裕次郎の『ゴーゴー魚釣り』が思い浮かぶ。

「珈琲を淹れてくれ 熱くて目が覚めるやつを」という一節が妙に印象に残っていて、飲むたびに頭の中に流れるのだ。

 

そんなこんなで、時間を気にしないでいい、無為だけれど優雅な早朝を過ごしていたら、少しずつ外が明るくなってきた。どうやら今日は晴れらしい。

 

ここ数日は雨や曇りばかりだったので、お天道様、少しご無沙汰です、という気持ちになった。

 

 

話は変わって、ここ最近、長い文章を書く気にも、雑記を書く気にもならない日が多かったのだけれど、久しぶりになんとなく書いてみた。書いてみたというよりは、なんか書けてしまった、というほうが近いのかもしれない。

 

なんとなく、で書くことができるのは、きっととても大切なことで、何かすきなことをするのに本来気力はいらないはずなのだ。

 

この「なんとなく」を大切にしたいし、「なんとなく」ができる自分も大切にしたい。

久しぶりにそれができたので、今日は少しばかり良い気持ちです。

 

今日は布団でも干そうかな。ついでにぼくもベランダに出て、布団と一緒に陽を浴びようかな。

 

なんだか気分がいいので、もう1杯コーヒーを淹れてきます。

すっかり冬らしくなって来ましたので、皆さんもご自愛ください。

 

それでは、また。

さむくなったね

最近、朝晩がよく冷えるようになった。こと今日に関しては日中も寒かった。去年の秋によく着ていたフーディをクローゼットから出して着てみたが、暑くも寒くもなく、丁度良かった。

 

去年の秋に、と書いてふと思ったが、よく考えたらもう秋なのだ。10月も中盤に入ろうとしている。

 

毎日毎日去年の今頃は、なんて考えていたらもうかんな季節になってしまった。時が経つのは年々早くなるばかりだと身に染みて思う。

 

寒くなると幾分感傷的になってしまう性分なのだが、今年もそんな季節がやってきた。

 

例年はじわじわ季節が変わっていたけれども、今年は気づいたらもう変わっていた。知らないうちに、考える暇も無しに。

 

 

高校生の頃は中学生の頃より時が経つのを早く感じたし、大学生の頃は高校生の頃よりも、である。まして大学を卒業したらば、だ。

時間の有限性なんてあまり考えたくないけれど、年々痛感してしまう。時間は有限だし、その時間軸の中にいるぼくも有限だ。

 

時間が経つという事は周りの人間も同じで、ぼくが歳を取ればみんな同じように歳を取る。じゃなければエディはまだ死ななかったかもしれないね。

 

時間が経てば歳を取る。身体年齢は不可逆だ。戻りたい過去があっても戻れんのだ。精神年齢だけはいつまで経っても大人になれないけれど。

 

心の幼い自分がきらいだ。たまにすきな時もあるけれど、そういう時は大抵言い訳でなんとかしているのだ。

 

 

そんなこんなでもう10月、今年はもう2ヶ月もない。

2021年という数字はまだ遠い未来のように思えるし、実際年を越してもそう感じると思う。

 

ある一点に留まり続ける自分の存在には、数年前から気付いていた。けれど、最近になってやっと、「気付いていた」が「はっきりと輪郭を捉えた→変わらなくてはならない」になった気がする。

 

ぼくはどうしようもないぼくだからしょうがない、みたいな思考を、少しずつだけれど変えられるようになってきた。

 

今までは、何かできるようになっても「でもぼくはだめだから」でへし折ってしまっていたけど、たまには肯定することも大事なのだなと思うようになった。

1ミリでも成長したなら2ミリになるように頑張ればいい、と思えるようになった。割とぼく史上革命的なことだ。自己否定ばかりしてきたから。

 

そう言いつつも、来年の今頃、今日くらいを思い出して「何にも変わってないなあ」なんて思ってそう。そうじゃなかったらいいな。

 

今日は肌寒くて、ちょっと風の強い雨の日でした。

いつかはわからないけど、昔もこんな日があったな、と思った。

昔のぼくを買う、ということ

博多ラーメンの膳。帰省するたびに「美味しいなあ」と足を運んでいる。ぼくが美味しいと思えばもうそれはそうなのです。

 

思い返すと高校時代は当たり前だが金銭的な自由が無かった。まず高校受験で第一志望の公立に落ちて私立に行くことになり、それと同時に親が共働きになったので、何とも言えない後ろめたさがあった。

部活はお金がかかるので7年続けたバスケを辞め、帰宅部になった。じゃあ勉強しようかと思ったが、いかんせん引け目があるので塾に行きたいとは言えない。結局ローンチされたばかりの受験サプリ(現スタディサプリ)をお小遣いで契約して勉強することにした。今考えると別に塾とかサービスとかが無くても勉強は出来るだろうよと思うけれども所詮高校生である、「頭のいい人=塾通い」みたいなことを意識していた。「通塾してないのに頭がいい人」は天才かつ影でめちゃめちゃに勉強していると思っていたし、実際めちゃめちゃに勉強しても結果が出なかったので受験サプリを契約した。今考えるともっと効率的な勉強の仕方があったやろうもんと思う。たらればを反省点に出来る人間になりたい。

 

ちなみにその当時のお小遣いは1ヶ月5000円で、通学の電車代に当てたり文房具に当てたりしていた。基本的に雨の日以外は自転車通学で、片道は大体5-6kmくらい。海沿いを走る道なので晴れた日はとても気持ちが良かった。

一方梅雨時期は殆ど電車を使わざるを得ないので、みんなが焼肉に行ったり回転寿司に行ったりしているのをいいなあとか思っていた。雨が降ると財布は軽くなる。コンビニで買い食いするのもちょっと憚られた。

 

そんなこんなで基本的にあまり余裕のない高校生活(当たり前だけど)だったので、安いものを必要以上に美味しい美味しいと言って楽しんでいた。まあ実際美味いので仕方がない。

 

その一つが「膳」というラーメン屋だ。福岡では専ら博多ラーメンが主流で価格帯も低いのだが、ここは一杯280円と中でも安い。(少し前までは100円ラーメンも存在していた)

当時は少し余裕が出ればすぐ行っていた、懐かしい。勉強と勉強の合間に、沢山の生ニンニクを潰してスープを完飲した。高校時代のぼくにとってはスーパーハッピーな瞬間だった。

 

今でこそ320円と少し値上がりしてしまったが、それでも安い。帰省するたびに行く。嘘ではない。

そして味に関して言うと、普通に美味しい。けれども正直なところ「絶品でめちゃめちゃに美味しい」という訳でもない。いつ行っても「まあこれは膳の味だな」と思う感じ。

でも帰省するたびに行ってしまうし、昼に食べて夜の飲み会のシメに食べる、なんて日もザラにある。

 

そこで感じるのが、ただ「安くてうまいを買う」という構図だけではなく「付加価値がある」からこそ未だに行く、と言うことだ。膳の場合はノスタルジックな付加価値で、「あの時よく行ってたなあ」とか思いながら麺をすするのである。

 

同様に煙草もそうだ。例えば卒業論文を必死に書いていた時によく吸っていたglo「ネオブーストミント」は吸うたびに卒論を書いていたぼくの記憶が引っ張り出されるし、今も昔もずっと吸っているハイライトのメンソールを吸えば、その時々の経験を想起させる。たまにピースとかボヘームのモヒートダブルとかも買うのだが、そういう類のを吸う時は普段と味が違う分尚更である。

 

 

モノと体験/記憶を結びつけることは別に不思議なことでも何でもないだろうけれど、何だかそれによる体験/記憶を想起する度合いはとても高い気がする。

 

そのときのぼくが感じたこと、その場の雰囲気、匂い、周りに誰がいたか、どんな話をしていたか、などなど。びっくりするくらい細かく、それも鮮明に思い出すのだ。人は過去の記憶を美化する習性があるというが、これに関してはただ純粋に思い出している気がする。

 

そしてぼくの場合、それが相当の頻度で何らかの購入動機に繋がっている。これこそ本文で言いたいことである。

 

例えばあの夏はこれ吸ってたなあ、と言う理由でマルボロのアイスブラストを買ったり、落ち込んでいた時に吸っていたからとか思いながら、気の浮かない日はピースのアロマロイヤルを買ったり。過去の自分を追体験するべく何かを買っているのだ。ぼくは昔のぼくを買っている。

 

ノスタルジーを希求しまくる自分はもはや何者なんだと少し頭が痛いが、モノーーこの場合は特に煙草ーーにはいろんな記憶が詰まっている。ずっと手元にあるモノはそれだけ付随する記憶も多い。

 

ぼくはその記憶を想起/追体験するためにいつもと違う煙草、つまりハイライトのメンソールではない煙草を買う。だから換気扇の下にハイライトしかない時は少なくて、大抵他の煙草も一緒にある。それで言うと今はマルボロのオプション。大学一年の夏に一時吸っていた煙草で、「懐かしいなあ、楽しかったなあの時」とか思いながら吸っている。言語化するとかなり気持ちが悪い。

 

とは言え、自分が置かれている現状や感情への対処として、モノで昔の記憶を手繰り寄せ、ちょっとした安寧とかを得ている人は割と居るのではなかろうか。

 

例えば音楽もそうだ。よくある話で言うと「青春時代によく聴いてたもんだ」とか言いながらレコードをかけるおじさんとかまさにそれである。音楽と言う"モノ"がトリガーになって、当時の出来事や感情とかを思い出す。ノスタルジックな気持ちになってその一時は「懐かしい」以外の感情から殆ど解放される。これはモノと体験の結びつきの典型例だと思う。

  

 

と、文を書きながら思ったのだが、将来AIなりが発達したらその時々で「あなたは今こう言う感情だからこれを買うべき」みたいなリコメンドをされる日でも来そうだ。割とこれに関しては本当に来ると思うし、自分が知らないだけでもう来ているかもしれない。

既に気の向かない時にはこのプレイリスト、頑張りたい時にはこのプレイリスト、みたいなリコメンドシステムが存在しているのだから、購買の動機付けでも同じことが出来るはずだ。消費期間的な判断軸ではなく精神的な判断軸に則ったシステムで、その一つの基準に「ノスタルジー」的要素があっても何らおかしくは無いと思う。そもそも個々人の経験則自体その人の記憶で構成されている。

 

 

そんなことを思いつつも、「あなたは今日はロックな気分ですね、だからラッキーストライクを買うべきです」みたいなことを機械に言われたら苦笑してしまう気がする。でも、苦笑しながらその通りにする自分も目に見えていてちょっともどかしい。買っちゃうんだろうな。

 

今のぼくは昔のぼくを買っているし、たぶん未来のぼくは今のぼくを買う。

 

そうやって思い返せば、ぼくは今まで自発的に追体験を求めて生きてきた気がする。あの時は楽しかったなとかあの時辛かったなとか、思考の中にとにかく「あの時」が多い。

 

他の人はどうなんだろうかと思ったけれど、自分がただの懐古主義の思い出狂なのかもしれないし、たぶんこれは考えない方がいい問題だなとも思った。

 

一向にまとまらないね。そんなお話でした。

雑記

煙草を吸いながら本を読む。

本を読みながらではなく、あくまでも煙草を吸いながら、である。

かぶれなのでな。

 

色々と思い返せば何につけても形から入って、それを気にしすぎてきた気がする。

読書もバスケも音楽も。煙草とバッシュとPRS。

 

自分のアイデンティティは何なのだろうかと昔からよく考えるのだが、結局のところ結論は出ていない。

最近になってようやくわかってきたのだが、その辺の曖昧さがぼくのアイデンティティなのかもしれない。

 

みんなが持っているものに魅力を感じたり、将又逆のものに魅力を感じたりする。

 

あの人と同じものをぼくは持っているんだ、だから仲間外れではないんだ、みたいな共同性に意義を見出したり、みんなとは違う自分に意義を見出したり、ざっくりいうとあべこべな信念のもとここまで来てしまった感が強い。

 

他人と一緒で在りたい自分と、そうで無く在りたい自分。例えば前者はみんながやってるゲームをすること、後者は周りの人が聴いていない音楽を聴くこと。

 

その辺の程度がどうしてもアンバランスになってしまうので齷齪したり自分に戸惑ったりする。

子曰くの中庸はいつになったら身につくのでしょうか。

 

そういえば大学を卒業したので社会人になった。つまり社会に出て働かなきゃいけない、だからなるべく規則正しい生活を送らなきゃいけない。

でも仲の良い人たちに合わせようとすると多分それは不可能だ。周りの友達は昼夜逆転が多いし、ぼくもそうだった。

 

みんな社会人やめて永遠に大学生の身分になったりしたらぼくはもう少しばかり生きやすいな、なんて思ったり。とんだ我儘ですね。

 

怒髪天の記念曲のサビで「大人は最高」と言う歌詞が流れる。そのパートはチバユウスケが歌っている。

 

自分が憧れる人が、自分の理想と真逆の事を嗄れた声で高らかに叫んでいる。やはりあべこべな嗜好である。

 

ここまで読み返すと、どうも変な拘りに縛られているからどんどんドツボにハマっているのだなと思う。

実際これは高校時代にも大学に入った時にも感じていた。さして対処する事なく世間一般の「大人」の身分になってしまった。だからぼくは今までの大学生だった自分とその生活を希求しているのだろう。

 

どうせ自分で金回りをどうにかしてきたのだから、留年していろいろ考え直す時間にすればよかったのかな、とか思う。

 

結局、たらればばかりの懐古と反省で、後者は本質的に成し得てないなあと思ってちょっと辛くなった。

 

いつかカラオケで「大人は最高」なんて叫べる日がくるのかな、来てほしいな。来ないのかな。

社会人になってから得た物は多少の金銭的余裕くらいで、それと相反して精神衛生が削られている。

 

まだまだ「大学生は最高」な自分のままで、そうして居たいのだろう。というか絶対そうだ。

 

 

さして早起きもせず、キャンパス近くのカフェで煙草吸いながら本を読んで。それを知った友達がそこに来てだらだら雑談して。家に帰ったら適当にご飯を作って酒飲んで。終電の無くなった深夜に友達が自転車でうちに来て。

言語化するとスーパーハッピーな時期だったなとしみじみ。あの素晴らしき日々をもう一度、でも叶わないんですなあ。

 

そんな事を思いながら眠れずにこの文章を書いています。薬を飲んでも眠れなかったのでソファに座ってタイピング。

眠れないのに頑張ってベットにいるのはよくないらしい。脳が「ここは眠れない場所」と認識して、余計眠られなくなるそうな。

 

本当かなあと思いながらとりあえず移動して今に至ります。

何だか眠れる気がしてきたような、してこないような。

 

とりあえずベッドに戻ってみようかな。おやすみなさい。

 

 

今年も夏がきてしまいましたね

カフェで勉強するときに、無意識下にルール付けていることがあるなあ、とふと気づいた。

ぼくは、隣席の人が同じように勉強していたら、自分の後から来た人が勉強を始めたら、もしくは読書を始めたら、きまってその人たちより長居する。別に大した理由などないのだけれど、自分の習性はなんだかサウナ好きの人みたいだ、なんて思って少し笑える。

 

ぼくが笑えたとて店側からしたらたまったものではない。単純に考えて回転率や購入人数が減るほど薄利になるからだ。

一方で、従業員からしてみればそういう客の方が以外と楽だったりする。来客の回転が早いとせかせかして手が回らなくなってくるのだ。飲食店で働いたことがあるのでわかる、と言いたいところだがこれはまあただの言い訳である。

 

と、近所のコメダコーヒーでこの文章を書いている。感染症が幅を利かせ出してからは長居することは無くなってしまって、なんとなく立ち寄る場所、みたいになってしまった。それでも毎年の夏と同じくしていつ来ても店内は涼しいし、いつもと同じようにトーストが出る。ちなみに朝はBモーニングしか食べたことがない。あのたまごペースト美味しいよね。

 

そんなこんなで今年も夏が来てしまった。一年の中でいちばんすきなのは冬だ。100回くらい言ってきた。でも嫌いというよりは、冬の方がすきなところが多い、という感じである。

 

そうは言っても、夏にだってすきなところはある。うだる暑さと湿気を歩いたあと、冷房の効いた店に入ったとき。冷蔵庫で冷やした水を風呂上がりに一気に飲み干すとき。暗くなってから蝉が泣くのをやめた静けさ。バカみたいな炎天下の中仲間内で行くビアガーデン。

 

ぼくは最後のが夏でいちばんすきなのだが、今年はどうも感染症でそういう訳にはいかない。別段ビールがすきな訳ではないので、一人で飲む冷えたプレモルなんて生ぬるい発泡酒と同じなのだ。結局ぼくにとってはそんなもんで、ビールよりも雰囲気、みたいなよくある話だと思う。

 

思うに今年は、なんとなく集まって、なんとなく飲んで、なんとなく楽しい、みたいなことがあんまりなさそうである。

思い返してみれば自分の記憶の中にある楽しい思い出は、だいたい”なんとなく”楽しかったなあというものばかりだ。結局、物事の程度は中庸がいいのかもしれない。

 

もう夏だ。もう夏か。今年は鬼のように早く時間が過ぎていく。大学の卒業式が中止になり、入社式が中止になり、研修もオンラインになり、気づけばもう8月の中旬に入った。

 

その一方で、どこか時が止まっている。なんとなく「まだぼくは社会に出てなんかいないのではないか」なんて思う。卒業式とか入社式とか、区切りを付ける機能を果たす行事が軒並み消えてしまったので、なんだか自分の存るべき場所を大学から切り離せていないような感じがする。

そもそも大学が在るべき場所だったのかという疑問は残るけれども、とにかく地に足つかぬままここまで来てしまった感がある。そして多分、心の奥底でまだ学生でいたいと思っている自分がいる。社会に出るにはまだ心が幼稚すぎるのだと思う。

 

高校の同期に(多分仲が良いからこそ)”傍若無人なわがまま大魔王”と呼ばれていた友人がいるが、その文字の羅列を見るたびに「それぼくだなあ」と思っていた。

 

さて来年のぼくはどうなっていることだろう。今まで自分を見てきて思うけれど、8割方幼稚なままだと思う。普段のぼくは残りの2割にかけて頑張ろうとか成長しないとなとか思うけれど別に何もしないので、毎回8割の方の結果になる。来年とは言わず近いうちに2割の方の自分になってると良いですね。

 

蝉が鳴くのが止んだりまた始まったりしている。近所の軒先きの風鈴がほんの少しだけ涼しい。早くヒグラシが鳴いて秋っぽいもの寂しさが来て、そして暖房の要る冬になってください。お願いします。