雑記

ミルクよりクリームの方が高価な訳を知っているだろうか?

牛はちっちゃなボトルにまたがるのがいやだからさ。

 

ヴォネガットはこう言った。

 

 

人は、暗い海の中を、ずる、ずる、と、経験と言う行灯を頼りに進んで行く。

倫理、常識、慣習、、。色々を反芻しながら進んで行く。その過程の中で、自分が身を置く世界の中で、守るべき規律を反芻しながら所謂大人になって行く訳だ。

 

では「大人」とは何だ?

 

この疑問こそが種々の諍いを生む、その理由。

他人の、信奉するもの、内に秘める規律、ましてや心情など、推し量る事が出来たとて寸分狂わず理解できる事は無い。故に正当化ができる訳だが、正にそういうことだ。面白いが、面白くない。面白いが、面倒で、しょうもない。そんな具合のものなんだろう。

 

自分が信じ奉ることが無い訳ではないが、どうも納得できずに居る。解っては居るけれど、納得したくない。負に落とさせた瞬間に、どうも自分が壊れてしまいそうな、そんな感情を抱いてしまう。

 

結局の所、ぼくがいろんなこと、おもったことを文字に起こしているのも、”キーボードの打鍵が心地よい”みたいな、そう言った類のどうでもよい理由からなんだろう。

 

 

 

冒頭で触れたヴォネガットは「これで駄目なら」といいつつも「忘れては駄目だ」とも述べた。

 

本は先人の教えだ。それが正しいとか間違っているとか、良いか悪いかは置いておくとして、先人の思慮する所を記録したものには相違ない。

 

どんな人であれ、先人の考えを反芻せずに生きて行く事は不可能だ。そんな事が出来る人が居たとすれば、人ではないのかもしれない。経験に基づかず、人々の知恵に頼らず生きるのだから、それは人間よりも高次でアニマルチックな存在だからだ。

 

酔っぱらってキーボードに向かう度に、自分の言いたい事が解らなくなる。先刻だって、諍いの理由は、とか言っていたのに、今は全く別の事についてやんやと語っている。とかく解る事は、自分に多少なりの成長が無い、只それ丈だ。随分前から解っては居たけれど、どうも本質的な変化は無い。どうにでもなれ、とも思えば、どうにかなれ、とも思う。とは言え至極人間的で、純粋なのかもしれない。先ほどの”正当化”だ。”駄目”なことには変わりないのだが。

手始めに、一貫性のある話が出来る様になりたい、と思った。明日には、忘れていそうだが、そう思った。